自殺と向き合えない仏教

9月6日の朝日新聞朝刊に「仏教、自殺とどう向き合う」と題して、自殺を考える人にどう仏教が対処しようとしているか記事が掲載されていました。

葬式仏教と揶揄される現状にとどまらず、生者に寄り添えるのか。

記事では、臨済宗の僧侶が僧侶約3000人に「自殺問題研究会を作ろう」とハガキを出したところ、返事をくれたのは3人にとどまり、会は実現していない例を取り上げ、多くの僧侶が及び腰になっている現状をさらけ出している。

また、よくマスコミも取り上げる「自殺志願者駆け込み寺」の篠原鋭一氏の取り組み、また自殺率が最も高い秋田県での動きが紹介されていた。


前項でも述べたが、「葬式仏教」でさえ行き詰まりが来ているのに、更に「自殺者」に向き合えるほど、僧侶には余裕が無いのが実情。
「死んでしまった人」に対しての「葬式」はできても、「死を考えている人」への「カウンセリング」の知識など、もともと僧侶には皆無なのだ。
かつ、自殺相談の電話など、いつ飛び込んでくるか分からない。
これも最近、マスコミでよく取り上げられる浄土真宗の僧侶:川村妙慶さんの話を聞けば、一日に処理するメールは200通にもなり、法務の合間をぬってホットスポットでメールチェックという毎日だとか。(読売新聞の記事
家族がいれば、そんな生活に、家族まで巻き込むことになる。
葬式法事の合間に、そんなことも、なかなかできることではなかろう。


僧侶は、所詮一つの「職業」なのである。
多くは、カウンセリングの役目など果たしていない。
心ある僧侶から、動いていくしかなかろうが、大変なリスクを負うことには違いない。
まず、自分自身の精神力を強靭にしておかねばならない。
鬱とつきあえば、自分まで鬱になる。


僧侶が、自分自身のよりどころとするもの、また「自殺志願者」に向き合う時の精神の土台とするもの、それは間違いなく「仏の教え」でなければならないのだ。

自分の考えや思いなら、精神科医やボランティアの方が、しっかりしたケアを施している。

問題は、「仏教の教義」が、自殺志願者にどんな言葉を投げかけることができるのか、ということであろう。


朝日新聞の記事では、東京大学大学院の末木文美士教授のコメントがあり、

「仏教界の動きが鈍い背景には、世襲制で多くは深い問題意識を持って僧侶になったものではないことや、そもそも仏教には自殺を必ずしも否定しない面もあり、この問題がなじみにくいことがある」

ということなのだが、これについて少し調べてみれば、浄土真宗東本願寺仏教用語のページには、こんな一文がある。

生と死のギリギリのところで、死の方を選んでしまったということでしょう。その選択を他人がどうこう言える筋合いはないと思います。ただ、その生と死のギリギリの選択のときに、「生」の方に重心が移るような手だてはないものかと思います。まあ果たして生の方が絶対によいのだという保証もないのです。

これを素直に読めば「自殺を選んだのはその人の勝手、生も死も、どちらがいいとも言えない」と読めるのだが。
正直、驚いた。
確かにこれでは、朝日新聞の記事で自殺対策NP0法人の代表が「ここまで黙り続けてきたお寺さんには期待できない」とコメントするのも、当然なのかも?


それにしても、これが川村さんが所属する真宗大谷派の公式サイトにあったことは、興味深い。
「自殺対策で期待できない」と言われそうなことを、進んで掲載するのも、どうかとは思うが。

葬式仏教が危ない

以前、中外日報の見出しに、「"葬式仏教"に徹せよ」とあったのを思い出す。

だからこそ、「葬式仏教でもいいじゃないか」という声さえある。

「葬式仏教」とは、大抵が「お布施」目当てだとさげすまれやすい。
中外は、それを"徹せよ"と見出しを打つのだから、いよいよなりふり構わずなのか。


しかし、どうやらその葬式仏教さえ危ない、という。


この記事を投稿した僧侶・板橋氏は、
「以前なら葬儀くらいは、僧侶主導で縁者と丁重に弔ったものだ……」と、ぼやいていた。


最近は、葬祭業者がすべてを仕切り、ホテルはおしゃれで料金体系の明瞭な葬儀を提供、また低価格の葬儀業者も現れ熾烈な競争を重ねるなど、僧侶の出る幕がないようだ。

さらには、多数寺院が葬祭業者へ葬儀紹介のリベートに、「お布施」の五割近くを渡していた事実が暴露され、不透明な金の流れが新聞で、糾弾されもしていた。


今や寺院は、葬儀の舞台からも退かざるをえないのだろうか。


「葬式だけは、不況知らずだったのに……」
これは、死活問題だけに、寺院関係者は手に汗握るのか。


「死人に群がる」と言われる葬式仏教。
「美しき日本」ならず、「美しき仏教」となる日が来るのであろうか。

戒名・法名の謎

NHKクローズアップ現代」で、高額な戒名料が問題にされたのは、平成10年のことであった。
あれから、寺院経営をとりまく環境は刻々と変化し、「改革」が叫ばれるようになった……のであろうか?

今日、寺を維持する経営は、御多聞にもれず、なかなか厳しいらしい。もともと十分な不動産があって、半ば不動産業を兼業できるような寺は別だが、現代人の生活が葬式以外では寺から遠ざかるようになると、十分にお布施を集めるのも難しいわけだ。戒名の文字ひとつについて、なぜあれほどのお金がかかるのか合理的に説明できる人はいないから、このようなところでも遠からず「価格破壊」が起こらざるを得ない。
 友人の一人は、仏教界でも宗教改革が必要なのではないかと言う。
 だがいかにして?

 寺の経営(教会と信仰)


なるほど、戒名料について、合理的な説明などできはしない。
だからこそ、寺側としては妥当な金額であっても、遺族にとっては高額に感じて、戒名の値段をめぐるトラブルが起きる。

戒名料は、宗派やお寺の格によって、値段は異なるが、首都圏で最も一般的な戒名で相場は30万円前後。
ある調査では、半数近くの人が戒名は高いと感じていることが明らかになっている。
戒名は本当に必要なのかという疑問の声さえ、出るのは当然。


GoogleやYahooで「戒名」を検索すれば、「宗派を問わず4万円。大正僧より授与 家族に大きな負担をかけない為にも」などといって戒名ビジネスの広告が出る始末。
やってられない。


戒名、法名は、元来、死者につける名前ではない。
戒名は天台宗真言宗などの聖道仏教で受戒した人に与えられる名前であり、浄土真宗法名は正しい信仰に入った人に師より授けられる名前である。
いずれも生前。


だからこそ、仏教とは「生前」に多いに用事のあるものである。
寺の経営は、本来は日常的な法話による布施によるものでなければならないのだ。
法話による布施収入が無くなれば、本来救いには無縁の「戒名・法名」を持ち出してきて、ビジネスにするのも、けだし末法の姿とも言うべきか。